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1974年 1月26日  ロスアンジェルス (ディスにーランド)

「アメリカへ行ったら一番何処へいきたい?」と聞かれた時は、いつも「ディズニーランド」と子供のように答えていた私。

とうとうやって来た! ロスからバスで。 5段階に分かれている乗り物の値段。入園券と10枚綴りの切符を買った。無駄にしないように考えて使う。

Eのチケットは 一番高い値段の乗り物で、さすがに素晴らしい。その中でも海賊クルーズは私達大人を喜ばせるアイデアが、実にうまく出来ている。 潜水艦・・・甥の憲吾達が喜ぶだろう。海に潜った感じがよく出来ている。 ジャングルクルーズは娘のCが喜ぶだろう。サイに追われて、木に登っている黒人達のお尻を角で突っつくサイ。その黒人のユーモラスなそれぞれの表情に吹き出してしまう。 あっと言う間に5時間が楽しく過ぎる。今度は必ず娘と一緒に楽しみたいと願う。

 

 

 

 

K(主人)記

ディズニーランドへ。たのしい。アメリカ的のいいところがよく出ている。 サブマリン、ジャングル、 海賊クルーズと。良く出来ている感心。

朝ホテルを変える。クラーク。(値段が安くなった)

通代がはやく元気になってほしい。少し鍛える。

明日、サンディェゴへ向う。

予算は今のところかなりオーバー気味。 まぁその内、おちつくだろう。

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1974年1月25日 サンフランシスコからロス

日本を発ってからずーっと眠れず。(今、写真を見ても私がどんどんやつれていっている)

夜中に消防車が4~5台きたので、火事かと驚かされる。

午前中、カリフォルニア大学バークレイ校に行く。主人が在籍していた大学。まずは大学内で洗濯。そして、バークレイ大学の広い広い校内を散策。緑・緑に溢れている。

思い思いの服装をした学生達。ヒッピー達も多く、いかにもアメリカの若者だ。ナップサックのような袋に本をいれ、背に担いで自転車で校舎・教室を回る女の子達が印象的。(今なら少しも珍しい光景ではないけれど、当時のわたしには新鮮でした)  手作りのものを道に広げて売るヒッピーたち・・・自由なアメリカらしい。

 

ロスアンジェルスに向かう。

今回、主人に会って言われたこと「これからの旅行のホテルはどこも決まっていない。ハワイのホテルが最高で、良いホテルは最後だと思って欲しい」 覚悟しなければ!

 

K(主人)記

通代と一緒にバークレイへ。なつかしい。コインランドリーで洗濯。シャタックからバークレイ構内。通代がねむれないで疲れ顔。まいった、本当に。 東湾、前日までと違って雲が出た。大急ぎで空港へ。

ロスではホテル探しに一苦労。結局HOLIDAY INN 。23ドルは痛い。日本に電話。ギャリーに逢う。どういうわけかウエンディも一緒。夜、ギャリーの車でハリウッド・グローマンズチャイニーズシアター等まわる。通代はいまにもダウン。ギャリーと日本で再会を約してー。 ロスはシスコより寒い。けど、53°F

 

(ギャリーはアメリカでの友人。後に有名なコメディアンになる。ウエンディはその彼女。今から思うと一泊二人で23ドルはとても安い)

1974年1月24日 サンフランシスコ 二日目

 

午前中、ツインピークスへ観光バスで行く。昼のサンフランシスコは、またまたエレガンス。スペイン風な家並におとぎの国に来ているようだ。眼下にフリスコの町が一望できる。

 

お昼のフィシャーマウンズにもう一度足を向ける。カニの湯がく匂いが食欲を起す。 新鮮でオイシイ魚介類を食べる事ができた。

 

 

午後2時、バスでミューアの森に着く。小川のせせらぎ、大きなレッドウッドあるの樹木の森は、どこか日本を思い出させる。美しくよく管理されている。

 

サウサリトウはヨット・ヒッピー・芸術家のまち。楽しい作品が店々に並ぶ。買って帰りたいものがあるけれど、旅が始まったばかりの今から買うわけにはいかない。

 

赤いゴールデンブリッジはサンフランシスコに似合う。 お天気に恵まれ太平洋の風が心地良い。

 

夜はチャイナタウンで久しぶりに中華料理をたべる。全体的にうす味でとても美味しかった。満足。チャイナタウンと呼ばれるだけあってまるで中国の町の感じがする。今日は中国のお正月。どこかでバクチクの音が聞こえる。 

 

 

 

日本を発ってから、緊張と興奮しているのか、ずぅーと夜が眠れないでいる。今夜、眠れるようにと祈る。。。少しウィスキーでも飲んで寝よう.
(アルコールは睡眠には逆効果だという事に、二人とも気が付きませんでした。また主人のお腹に、全財産が腹巻に入れて巻いていますので、お腹がぷっくり出ています(笑) )

.]SF

 

SF

 

1974年1月23日 (サンフランシスコへ)

 

ホテルの支払いを済ませ、暑くて美しいホノルル・ハワイを後にして、一路サンフランシスコへと向う。

UAというアメリカ国内線は私以外の日本人は見当たらず、英語ばかりの中で少々不安であったけれど、

[乗ってしまえば、もう こっちのもの!] という主人の手紙の言葉を思い出す。

隣の席のおばあさんが心細げな私に話しかけれくれる。うれしいのだけれど、言葉が解らない。

それじゃぁ、私の方から話した方がまだましかな・・・と思い、肌身離さず持っている娘の写真を見せて「私の娘です。2歳になります。彼女の名前はCです」と中学1年生で習った言葉で何とか言ってみた。「おぅ、なんて可愛い!」と答えてくれ、何となくお互い解らなくても話を続けた。

約、5時間。 アメリカ大陸がボ~と霞んで見えてきた。 隣のおばあさんがサンフランシスコだと教えてくれる。

入り江が鏡のように光っている。ハイウェーの車も見えてきた。

主人に逢える!! なぜか涙がポロポロ溢れた。元気で迎えに来てくれるだろうか?

[Cちゃん、パパとママと逢わせてね]と祈る。 主人に会ったら私はどんな顔をするのだろう?

大きく可愛くなったCの事を話そう・・・後は何を話せばいいんだろう?と思いながら飛行機から降りる。 迎えの人々が沢山来ていた。(その頃は 飛行機を降りると迎えの人と会えていた)

でも 主人、見当たらず・・・隣のおばあさんは迎えに来ていたご主人さまと抱き合っている!!

私には失望している余裕はない。次の待ち合わせ場所のバッケージクレームの場所へ。

長い長い通路(と感じた)を通り抜けて着いたけれど、夫は見当たらない!

荷物もまだ着いていない・・・とても淋しく不安。。荷物が来たら、次の待ち合わせ場所はJALのカウンター前だ。そこで会えなかったら、夫が泊まっている小さなホテルまで行かなければならない。。大丈夫だろうか? 夫も旅行中で、今はサンフランシスコに着いているはずだけれど、何かあったのだろうか?  

ハワイと違ってサンフランシスコの英語はとても速く聞こえて解り難い。
5分ほどした時、私の名を呼ぶ主人の声に思わず振り返る。

主人が笑って立っていた。 とても元気で!うれしい。涙が出てくる・・・。言葉は出てこない。。

で、でも、夫の格好は な、何?。。。髪の毛は伸び放題でしかも変な毛糸の帽子をすっぽりかぶり、薄汚れたズボンにジャケット、ヒッピーそのものの姿。主人??・・・格好なんてどうでもいい。 元気で向かえに来てくれた!うれしい。

 

取りあえずバスでパウエルホテルへ。古いホテル。すぐ前にケーブルカーの駅。しかもそこでケーブルカーはお客さんたちの押す力を借りてターンをする。 

日本に電話をする。両親は主人に逢えた事にとても安堵した声。娘Cも元気だという。。とにかくホッとする。

サンフランシスコの町に出かける。想像以上のあたたかさ、日本の十月の気候より爽やかで、とても今が真冬の1月だとは思えない。そして、サンフランシスコは想像以上に私を快く迎えてくれた。ケーブルカーという情緒豊かな乗り物は、何故か私をうれしくさせる。

まず、ケーブルカーに乗りました。坂道を登ったり、降りたり。
そして歩いて坂道ばかりのフリスコ(サンフランシスコの愛称)の愛らしい家々を知る。素晴らしい家々。アメリカの人達が住んでみたい№1の町、サンフランシスコ。楽しい坂道の町。

「あのね。Cはずいぶん大きく可愛く大きくなったのよ」


 

そして、ケーブルカーに乗ってフィッシュマンズワーフに行って夕食を食べました。

1月21日の続きです。

サーフライダーホテル。
入口が分らない。日本のお金持ちの新婚旅行に来ていたカップルに入口を尋ねた。

「凄い服装ですね」 コートを着ていたのでビックリしたのでしょう。                「日本は雪だったんですよ」と変な答えをしてしまった。   後で、「これから世界一周するんです」と答えれば良かった!とも思う。でも信じてはもらえないよね。

取りあえずは冬服を脱ぎ身軽になる。 暫くベッドに横になるが眠れそうに無い。

ワイキキを散歩。(今のようにブランド品を売る店が林立していないし日本語が氾濫していなかった)
のんびり、青い海と青い空を見ながら・・・(世界の町を周ってハワイは、私の住みたい所の上位にくるのですが、その時の私はただただ、日本に居る娘の事と早く主人に会いたい気持ちが一杯で、ハワイの良さに気付けなかったように思う。 あの光と気持ちの良い風。 なのに時間を持て余していた。)

海岸をウロウロ散策、そして本を読むくらいで・・・。 ハワイは一人では面白いとは思ない。しかし、2泊するように主人からの指示。(その頃の私は、とても真面目) (笑)

旅行会社の担当者さんから、ハワイに着いたら、パイナップルバウルを食べてくださいね、と教えられていた。パイナップルを半分に切ってあり、中身を繰り出して、冷やしたパイナップルと他の果物を混ぜ、サイダーのような飲み物が入ってストローとフォークが付いていた。美味しい。

夕食のため、レストランに入った。メニューをみてもチンプンカンプンで、主人の指示通り3ドル程度のものを指差し「プリーズ、ディス ワン」
出てきたものは幾種のハムのオードブル。皿一杯。
「ど・どうしょう・・・仕方ない! た、食べよう」で、一生懸命食べた。

懲りた私は次はバイキング形式のレストランを見つけた。人間、経験すれば賢くなるものである。
ちゃんとお店で寝るためのビールも買った。
緊張しながらも、少しづつ慣れてハワイ二日間を乗り切った。


つづく

いよいよ、ハワイだ!
日本を経った同じ日の朝に着く。 1974年1月21日

主人からは詳細な指示が手紙で来ていた。
○3ケ月の旅行といえど、荷物は細い私が簡単に持てる小さいスーツケース一つとハンドバッグ一つにする事。

○旅行の途中で気候が変わるから、捨てても良いコートを着てくる事。

○同じ日の朝に着くから一日が長い。機内で寝ておく事。

○ハワイに近づくと着替えする人が多いが、そのまま着てホテルまでいく事。手には最小限の荷物にする事。

○入国と荷物の検閲は結構厳しい(赤軍派が海外逃亡していた為)。難問題が発生したら、ハワイ支社に連絡して誰かに来てもらうこと。

○ホテルまでタクシーはもったいないので、乗り合いのリムジンにする事。

○ホテルに着くとドル札をコインに換えてもらう事。ボーイさんにチップ(クオーター)が必要。翌朝はベッドサイドに1ドルを置くこと。

○食事は2・3ドルのものを食べる事。
等々

機内では眠れなかった。娘は泣いていないだろうか?(よく、大声で泣き、私をオロオロさせていた)。病弱な母と妹で大丈夫なんだろうか? 私は英語が殆ど出来ないけれど、大丈夫なんだろうか?

(日本の実家で応接セットのガラスのテーブルが何もしていないのに、突然パリーンと割れた。両親達は私の乗った飛行機が落ちたと思って滅入ったらしい)

空港に着いた!タラップを降りると暖かい風が・・・。ハワイに着いたら、お花のレイをかけてくれると想像していたが、全然無し。(今から思うと笑える)

入国審査では「ハワイから日本に帰るのか?」

「いいえ、サンフランシスコに行きます」

「サンフランシスコがら日本へ帰るのかい?」

「いいえ、サンフランシスコで主人と会ってNYへ行き、ヨーロッパ・アジア・オーストラリアに行ってから日本に帰えります」                       
「切符を見せてください・・・ワォ~ワンダフル!」で通過。

疲れたが、よくまぁ、単語並べただけで理解してくれたとビックリする。
荷物を受け取り、検査に並んだ。誰も並んでいない隣のレーンで検査官が私に手招きする。
「?」と思いながら行く。荷物を開けようとする私に、ニッコリ笑って開けることなく「OK」と通してくれる。     「サンキュウ」と思いっきりの笑顔でお礼を言い通過。
リムジンを探してホテル名を言うと「OK」 ヤレヤレ。。。。つづく

1974年1月21日

いよいよ、出発の日になった。一週間前から実家に行った。妹もきてくれた。

かなりデリケートな2歳の娘は、何かを察知している。。その上で、何も言わず時々じぃーっと私を見つめている。抱きしめるしかなかった。「ママはね、旅行にいくけど、元気でいててね。待っててね」と。

出かける時間になった。機嫌良く、母と妹と遊んでいる。「じゃーね」と娘と母と妹に言う。心配そうな母達も「じゃーね」と返事。

父が空港まで、車で送ってくれる。何も話せない父。。。空港に着くや否や車を止め荷物を降ろし「いってらっしゃい。」とそそくさと私を降ろす。 「??」私の乗る飛行機の搭乗手続きはずぅーと先なんです。父は私との別れが辛いのだろう・・・

「じゃー行ってきます。Cのことよろしくお願いします」と思い切りの笑顔で言う。。。内心不安と緊張!!

搭乗手続きはチケットの分厚さにビックリされる。大まかに主な世界の都市に取りあえずは行く事になっている。。。

友人が一人見送りに来てくれた。不安の中、嬉しかった。なんせ、飛行機に乗るのも初めて・・・取りあえずは東京羽田へ向う。

羽田には、中学・高校の時からの親友が夫婦で来てくれていて、ご馳走になった。

緊張しているだろうからと、ワインを勧めてくれました。飲めない私ですが飲みたい気分でいただいた。

気持ちが少し楽になって、最終搭乗キリキリまで話し込んでしまった。

その後、走った。走った。また、搭乗口が遠い。最後の搭乗者! 旅の始めから・・・先が思いやられる。。つづく